四国で渇水が起きると必ずと言っていいほどテレビに映し出される、早明浦ダムの旧大川村役場。
香川では毎日天気予報と一緒に早明浦ダムの水位予報があるほど注目の的なんです。
早明浦ダムの水がなくなると姿を現すこの旧市街の遺跡はみんなにとってどんな存在なのか?そしてどんな歴史があるのか?
一緒に紐解いていきましょう!
水没役場って?
大川村には1970年代に早明浦ダムが作られ、当時の村の中心部はほぼ全てこのダムに沈んでしまいました。
いろんな思いが交錯する早明浦ダムですが、その象徴となっているのがこの旧役場です。

この役場はダム建設が決まった後、ダム建設反対運動のため、あえて水没が決まっているところに建てられました。
現在、かつての村の跡はいくつかの石垣などを除いてほとんど残っていませんが、この旧役場だけは当時の姿のまま残っており、ダムが渇水になると姿を現します。
今でもダムの水量の指標としてよくテレビなどでも取り上げられたり、県外からも見物に来られる方が多いんです。
ダムに沈んだ村ってどんなところだったの?
旧役場は他の建物が流されてしまっても唯一しっかりと形を残している建物。
それだけしっかりしたものを作るにはたくさんのコストがかかります。
それだけ、ダム建設反対に対する村民の気持ちは並々ならぬものでした。
そうまでして村民が守ろうとしたダムに沈んだ村とはどんなところだったのでしょうか?

これはダムに沈む前の大川村に暮らしていた方が手作りされた旧船戸地区(現在のむらのえき結いの里の下あたり)のジオラマで以前の「ふるさと祭」で披露されました。
もちろんAIではなく、昔の資料や記憶を頼りに何年もかけて当時の景色を再現した大作です!
村がダムに沈んで半世紀近くたった現在でも、大川村内外に当時の村を思う方がいます。
村の年配の方々もジオラマをのぞき込んで「これは○○の家じゃ」「ここに○○があった」「ここのベンチ…!よう覚えちゅう!」と口々に思い出を語っていらっしゃいました。


そんな今は無き村の様子をジオラマとともに見ていきましょう!
どのあたりにあったの?
現在県道17号線の走る船戸から役場のある小松、そしてその先の高野地区、そしてその対岸の中切地区辺りは、ダムに沈むまではたくさんの人が暮らす村の中心地でした。




中心には清流吉野川が流れており、それを挟んで両岸に石垣を組んで段々状に作った平地に家々や田んぼ、畑が集い、バスが行き交い、学校や商店、旅館などもあったのです。
まるで連続テレビ小説に出てきそうな、レトロな田舎町だったんですね。
川は子供たちの遊び場

ジオラマの南(手前)側には吉野川があり、川が穏やかな日は子供たちの遊び場でした。
当時の子供たちは水筒と釣竿を持って川に行き、泳いだり魚をとったり。
年長者がリーダーとなり火を焚いて、道々茶畑からむしって来た茶葉でお茶を入れたり、魚を焼いて食べたり。
夏休みなどは子供だけでキャンプをすることもあったそう。

当時は子供の数も多く、年齢ではなく地区ごとで子供たちのグループがあって、川の「いい場所」は早い者勝ちだったため、学校が終わると急いで場所取りに走ったのだとか。
そんな年上の子が小さい子たちを守り、下の子は上の子を慕う、という村の子たちの空気感は今でも残っています。
その関係性は大人になっても受け継がれ、集落全体が親戚で仲間のような、そんな村でした。
まさに現代人が憧れるような「田舎スローライフ」の世界がそこにあったのですね。
みんなで助け合って代々作り上げてきた村
一方で、切り立った山々がほぼ全ての村での暮らしは簡単ではありません。
そもそも平地がほとんどないので、田んぼを作るにしろ、畑を作るにしろまずは土地を平らに作るところから始めなければなりません。
斜面を直角に掘り、土をならし、石垣で崩れてくるのを防ぎ、そこから始めて開墾ができるようになります。


源氏に追われた平家の末裔が移り住んできたという言い伝えのあるほど古い村ですから、大型の重機なんてないころから、平地を作るための石垣をみんなで力を合わせてひとつひとつ、先祖代々、コツコツ築いてきたのです。
それを子供時代からの仲間みんなで手入れしながら、助け合って少しずつ増やしてきた土地と信頼は、お金で換算したりどこかに移設できるような性質のものではありませんでした。
湖に沈んだ役場
水没予定地は村の中心部のほとんど。
多くの家や田畑、商店や公共施設も集まっている場所でした。
そんな村としての歴史と絆そのものが壊されてしまうことに加えて、住民への補償費はあるものの、ダム建設後は所在地が本山町と土佐町となり、ダム完成後の固定資産税は大川村には入ってこないなど、実質的なメリットが大川村には無いこともあって、大川村では官民一丸となった反対運動が起きました。
村民大会を開き、「ダム建設反対」の横断幕を持ってデモも行われました。
村内に建てられた「ダム建設反対」の立て札は600にも上ったそう。
そんな中で反対運動の象徴として建てられたのが旧大川村役場です。
元々の役場も集落の中にあったのですが、より堅固な抗議の意思を示すものとして水没予定地の集落にあえて建設されました。

新設された大川村役場庁舎
けれども10年以上に渡る交渉の末少しずつ抵抗は弱まり、水を入れる最後の最後まで粘った大川村もとうとう水の底に沈むこととなりました。
ほとんど同時期に白滝鉱山の閉山もあったことで、大川村の人口は一気に減少。
最盛期には4000人以上いた人口が、1985年には一気に750人までに減り、2010年にはついに「離島を除いて日本最少人口の村」となってしまったのです。
子供のころからの思い出と絆、先祖代々親や親戚たちと大事に守り作ってきたものが水に押し流され壊されていく様は、今でも深く静かに心の傷として残っています。

流されていく建物
それでも早明浦ダムは命の湖

そんな村民にとっては複雑な思いのある早明浦ダムですが、特に渇水の多い香川県にとっては命の水がめ。
香川のテレビでは天気予報の画面に早明浦ダムの貯水率を表示する習慣があるくらい、重要な存在です。
村ではすべての集落で山の沢水をひいたり、沢水を生活用水として使っているためダムの水を使用することはなく、ダムの貯水量の増減は生活に影響がないのですが、やっぱり渇水は心配。
目に見えて水量が減ると
「今年は大丈夫やろうか?」
「心配なねえ…」
「もっとようけ雨が降りゆうとええねぇ」
と水量の話題が飛び交うようになり、ダムをのぞき込んで心配しています。
またそういうときは香川から旧役場を見物しにくるお客さんもどっと増えます。
以前渇水になったときには、村のえき結いの里の駐車場に入りきらず、道路沿いにびっしり車が停められるほどお客さんが押し寄せたことも。
狭い道も多いので、見に来るときは運転にぜひ気を付けてきてくださいね。
水没役場はいつどこでみられる?
そんな大川村旧役場。
ふだんは影も形も見えませんが、水量が下がるとうっすら屋根が見え、さらに水位が下がると天井が顔を出し、最上階部分からだんだんと水の上に。
その姿はむらのえき「結いの里」からはっきり見ることができます。

遊覧船ならいつでも見られます!
春から秋に運航されている遊覧船なら、高性能なレーダーでダム湖に沈んだ旧役場の姿を観測することができます!

こんなにはっきり見えるの!?ときっと驚くはず!
大川村遊覧船は、ダム湖を巡って、旧役場以外にも落差100メートルを越える小金滝などの観光名所を見ながら、大川村や早明浦ダムの歴史を村のガイドさんから聞くこともできます!
なかなか聞くことのできない、お山に根差した暮らしのお話もぜひ聞きに来てくださいね。
いろいろな事情が重なり、村民としては複雑な思いのあるさめうらダム。
でも、現在は遊覧船が走ったり、早明浦ダムを見に来るお客さんとの交流も増え、愛着もある村のアイコンとなっています。
ぜひ気後れせずに本物の「水没した旧役場」を見に来てくださいね!
